その会社では九州支店のコンピューター室に所属してて、一つ上の先輩、俺、一年後に入って来た後輩、年下だけど先輩の女子社員、入ったばかりの後輩二人が所属してた。俺はプログラムを作ったり日常業務なんかをやってた。
ノックをして支社長室に入ると、支社長と総務部長が何か談話をしてて支社長は関西弁で「おう!碓井君まぁ座りーな。」そうすると物腰の柔らかな部長が話しはじめた。内容はコンピューター室の体制に関してだった、一つ上の先輩は正直評判があまり良くなかった、営業部からも苦情が出てたのは知ってた。その話が終わると支社長はまた関西弁で「碓井君!ほな頼むで。」と部屋を出て行き待たせておいた車に乗り込み本社のある大阪へ帰って行った。
話の内容は、先輩をコンピューター室から外して俺はまだ若いから役職はつけれないのでコンピューターには無縁の営業部から窓口として係長を置き、コンピューター室を碓井体制で自由に回してくれとの事だった、、、複雑だった、、、期待してくれるのは嬉し
い、、、その一週間後に部長に退職願を出した。その一週間誰に相談したとか、どんな心理状態だったかとかは憶えてないけど、好きで始めたギターで僅かながらお金をもらえるようになって三ヶ月。最初はバイト感覚だったかもしれない、、、ギターだけでは全然食えない、車も買ったばかりだった、、、サラリーマンとしては嬉しい話だろうと客観的な自分がいたけど、正直その当時仕事が終わって開放感を得ていたのはやはり音楽やギターを弾く俺だった、かっこうや着るスーツもエリートサラリーマンとは全然違っていて、毎日通勤で前を通るガソリンスタンドではミュージシャンが帰りよぉとかって後日分かった事だけど噂してたらしい。
退職願を出した直後に総務部長と大阪の本社での会議に行かなくてはならなかった、正直気まずかったし、まだ正式に受理もされて無かった。日帰りで新大阪駅でビールとつまみを買い込み新幹線に乗った。車内で乾杯をし3時間半の二人の時間が始まった、、、部長は物腰が柔らかくいつも遅刻する俺にも寛大だった、そんな部長が自分の息子の話を始めた、「碓井君。俺の息子は絵を描くのが凄く好きなんよ」「中学校の美術の先生になってね、私も夢が叶ったって喜んでた矢先に、、、、(沈黙)、、、、やはり絵描きになりたいって言いだしてねぇ、、、、」「結局教師を辞めて、、、絵描きを目指しとるよハッハッハッ、、、、その道では食えてないんやけどねぇ、、、、、」俺はずっと無言だった、すると部長は唐突に「碓井君には正直やめて欲しくはないんよ、、、会社的にはね、、、、けどねぇ碓井君がただ、今時の若い奴みたいに仕事が嫌でやめるんやったら絶対止めるけど、、、、やりたい事があってそれで花開くかは分からんけども、、、、、その道に進むんやったら俺は反対は出来んよ、、、、、、、」「支社長には俺から話とくから。」って笑ってくれた。その3時間半は鮮明に憶えてる。
その一ヶ月後の8月いっぱいで引き継ぎも終えその会社を後にした。それからが怒濤のバイト生活が始まる、家賃も払えない状況で、車はすぐに売り飛ばし、税金はまとめて請求が来るし、やれ国民年金や国民健康保険証の短冊みたいな振り込み用紙は送られて来るわで、、、、会社を辞めてすぐに髪の一部分を金髪に染めた、、、それは俺にとって儀式でもあった(もうこの世界には戻れないように)。そんな中俺にしか分からない事があって会社に行ったけどね(笑)
レッスンが夕方からあったのでバイトにも制限されたので、早朝から昼や午後三時までの青果市場でバイトする事に決めた。それが今の季節のこの時期だ、その仕事内容は過酷で朝6時からはじまる。30キロはある白菜を100箱も一人でトラックに積んだ事もある、そんな市場は高校中退したヤンキーなんかも多く、名前も憶えてもらえずに「おーい!アルバイト!」と、こき使われた。金のない俺は市場の数件ある食堂でお昼は一人で、肉焼き(豚肉を塩こしょうで炒めたやつ)と小御飯で¥350で何とかしのいだけど、豚肉旨かったなぁ〜。
そんなこの時期の空気で思い出す事は、朝7時過ぎから道路に面したサニー専用の出荷場所でトラックに仕分けしてると、前の会社の仲良かった後輩や同じコンピューター室の女子社員がその道を車で出勤する。そこで車のクラクションを俺に向けて鳴らす、、、笑顔で手を振って行ったりする事もあった、、、、向こうは俺にエールを送ってくれてるのは
分かるけど俺何やってんだぁ〜と凄く寂しい疎外感のシーンを思い出すよ。


空も秋色。
この季節は空の青さとか雲が素晴らしい。空も高いしね。
昼休みに市場の駐車場の屋上で寝転んでた時と同じ空