自分がここまで音楽で暮らすようになって21年たちミスチルより長いのか何て不思議な気持ちになり、このままの生活スタイルでいいんだろうか?とか、何でギター始めたんだろう?とか、何でまだギター弾いてんだろ?とか、もちろん人にギターや音楽の素晴らしさを伝える事はやりがいはあるんだけど、けどそれの為にギター弾いてる訳じゃない事も分かってる。何でもこなせるミュージシャンにも興味はない、作品作ってそれを多くの人に伝えたくてギター弾いてるのも分かってる。やはり去年の暮れくらいからミリセカンドずれてる心の感覚ってのはこういう岐路に向かってたのか?毎日気が付くとボーッとそんな事を考えてる。焦ってはないけどこんな感覚で少し過ごしてみようって思う、次のステージがまだ見えないけど、今のステージは日々一生懸命に100%の俺の感覚では過ごしてる、それは誰に対してでもどんな事に関してでも21年ぶれてない自負はあるよ。
俺が生まれてすぐに父方のばぁちゃんは亡くなった。だから俺のばぁちゃんは、ある写真の顔だけしか脳裏に浮かばない、けど不思議と子供の頃から困った時は、そのばぁちゃんの顔が心に現れて俺を救ってくれてる気がする。気が付けば高校や大学受験の時もばあちゃんにお願いする自分がいた「ばぁちゃん受かってますように」ってこころで念じる癖がついてる。音楽で喰うようになって全然喰えなくて税金なんかが払えなくて(財産差し押さえ請求)が来た時もばぁちゃん助けてって写真の顔に念じてる自分がいた。感慨深いんだけど、今に向かってここ何年かはあるようなきがする。それはここ何年かお墓参りしなくてはって思いがずっとあって、もう十年近くお参り出来てない事が引っかかってた。実際去年の春頃行きかけたけど行橋で時間が足りないことで断念した事があった、小倉での仕事前だったのでしょうがなかったけど、やはり田舎なので平成筑豊鉄道で犀川まで行き後はタクシーで行かないとどうしようもない事はわかった。近々ついでとかではなくちゃんと行こうって決めた、何人か博多から車で連れて行ってくれるって言うやさしい人もいるけど、ちゃんと自分の足でお金使って行こうって決めた。行橋にホテルとって前日に行って同級生のゆっこさんの店にでも行って、その土地の空気感や自分が暮らした風土を感じて次の日にちゃんと自分の足でお寺まで行ってお参りしようって思う。何のおねがいするつもりも無く、まずこんな碓井にとって最悪な孫あることは詫びよう、俺はもうそのお墓に入る事は出来ないけど、今の俺がいる事に感謝するだけだ。そこで何か自分の痕跡やDNAやこの土地で生まれ育った感覚を思い出そう、少し怖い気がするけど。過去の碓井の人たちは今の俺に怒ってるだろうな、それは分かった上であえてお参りしよう。そしてそれからの俺にやって来る様々な人生の岐路の判断を良くも最悪でも受け入れようって思う。
これはスイーツじゃないよ、あんかけが大好きな俺に特別に作ってくれたメニューにない創作料理。最高でした!
今夜の光化学スモッグで香る小倉の気になるロボット。
こんなフウテンの俺でばぁちゃんごめんなさい。けど今こそ会いたい。