まずお詫びです!
9月23日(日)15時頃〜24日(月)15時頃まで携帯にメール及び電話をくれた方がいるならば、繋がりません、、、メールはセンターに溜ってると思うのでまとめて時間差で返事させてもらいます。完全に携帯電話が死にました、、、電波はつながるのですが画面が何も見れないため電池パックを抜いてOFFにしています。急用の方や返事が来ないなと、と思ってる方申し訳ありません。
俺はよく高校生の頃から行方不明になってた、つまり家出と言うやつだ。大晦日に家出して友達の家で新年を迎えた事もある、さすがに田舎は特に正月に友達がいるってのが不自然な携帯電話もない時代だったので、その友達の親には俺の親戚に急遽不幸事があり親達だけですっとんで行ったので、正月に俺一人も可哀想だと言う嘘をついてくれて泊めてもらった。正月一日は友達3カップルで鈍行列車で大分の宇佐神宮に初詣に行ったのを思い出す。大学時代も当時博多に付き合ってた彼女がいたのでしょっちゅう親には何も告げず一週間や10日と学校も行かずに彼女の下宿先に行ってた。結局用もないのに推薦で受かった大学には興味も無く、バンドと博多通いの3年間を過ごした。そして忘れもしないあの夜バイトで20万貯まってる貯金通帳だけを手に永遠の行方をくらませた。21時には寝る親にその日も散々批判され、布団を敷いて早めのムカつく床に入ったのが21時10分、瞬間の閃きと決断だった。「バンドも大学も友達も投げ捨てて、もうこの家を出て自由になろう」田川線の上りの最終が21時26分、、、家から犀川駅まで急げば10分かからない、、、間に合う、、、と思ったが先か、こそっと音を殺してクローゼットを開けて服を着替え、トイレに行く振りをして靴を玄関に取りに行き、部屋のサッシをこれがもう慣れててプロの泥棒並みに音もたてずに開るテクニックは備わってた。家を出たのが20分くらいだった、庭の砂利も音をたてずに後はとにかく走った、間に合う!って思ってとにかく全力疾走で走った、途中で列車の音が遠くで聞こえてくる、列車のライトが照らし出す、途中の最後の線路と平行してのびてる道では列車と競争する感じだった、そして入ってはいけない駅の裏側のフェンスをこそっと乗り越えホームへ、ギリギリ間に合った。後悔なんて全くなかった、早く彼女のいる博多へ行きたい、この街から離れたい一心だった。そして0時近くに博多へ到着して公衆電話に飛び込んだ、その年に就職した彼女は最初のボーナスで高い電話の権利を買い固定電話を付けたばっかだった、がむしゃらに番号を押して彼女のマンションへ到着し愛おしい彼女のパジャマ姿をみて自由を手に入れた!って思ったのを一部始終おぼえてる。それくらい圧倒的に感情的に生きてた、将来の不安や何になりたいとか今の若い連中みたいにおりこうさんで先に頭で計算して行動したり先を予測して動いてなかった、それよりも感情が先で気持ちが先で、いい事なのか悪い事なのかなんて関係なく感情的だった。この街を逃げ出して大好きな彼女のいる大好きな博多へ行きたい!そのシンプルな感情や気持ちだけ。そのせいか今でもそんな感情や気持ちで生きてる気がする。
そこで二ヶ月が過ぎ俺は自由を満喫してた。仕事を終えた彼女と親不孝通りに遊びに行くのが楽しみで、週末は一日中天神で遊んでた。平日は彼女が仕事に行ってるときは部屋でゴロゴロしたりピアノの練習したり本を読んだりして過ごしてた。するとあっという間に20万円は底をついた、、、バイトしなきゃ、、、バイトは大学時代に引っ越しセンター、ビラ配り、ぬいぐるみに入ったり、小倉競馬場の警備、交通量調査、家庭教師、24H営業の喫茶店、その店で毎日来るチンピラと乱闘になりかけてクビになった。とか沢山やってたので苦ではなく、けどこのまま彼女の部屋にいてヒモ生活はいやだって思ってたので、久留米大に行ってた幼なじみの所へ居を移した。ホストに誘われた事もあったけど夜の仕事だけは絶対に嫌だって何故か俺の中で線引きがあって、久留米大生でもないのに久留米大の教務課へ行きそこに貼り出してあるアルバイト募集で染色工場へ公衆電話から電話した「久留米大生ではないんですけど、、、」ボロボロにやぶけたジーンズに伸びきった髪、真っ赤なジージャンで面接に行ったのを覚えてる。面接に受かり朝8時から17時まで時給500円で働いた、久留米の大人の人たちは優しかった。得体の知れない俺に優しく接してくれて、理由なんてきかずにみんなと同じように接してくれて、その時はじめて「こんな大人の人もいるんだって」って思った。(うらんさかや)裏の酒屋って久留米弁でいう角打ちや文化街(久留米一の飲屋街)にみんなが誘ってくれかわいがられた。
そんな時に事件は起きた。俺の継母も親父と再婚なんだけど最初の結婚の時に息子がいて(俺に継母が俺の実の母親じゃないって言ったのも、また逆にギターを反対する俺の親父を説得して中学生の時にギターが買えたのも何故か中学生の時に同居してた継母の実の息子家族)その息子を俺は○○兄ちゃんって呼んでたけど、その兄ちゃんが福岡県警の刑事だった。もう家出するときは継母や親父と不具合になり同居してなかったけど情報を聞きつけた兄ちゃんは警察の特権を使い俺の彼女の実家を調べ上げ電話をかけ俺を捜してる情報が入った、俺の親父は捜索願を出すような人ではなくプライドをかざして来るので、かってに兄ちゃんが俺を捜し出しはじめた、しかも国家の特権を使って、、、勤務が休みの時に、、、、たまたま公衆電話から博多の彼女に電話した時に、当時俺は月〜土まで働き土曜の17時に仕事が終わってそのまま西鉄電車に乗って博多の彼女のマンションへ行き日曜日に天神で遊び月曜日の始業時間に間に合うように朝早く西鉄電車で久留米の染色工場へ出勤してた。「明日刑事がそっちに行くみたいよ!」って焦った声で「私の大学のときの先輩で車持ってる人おるから今からそっちに迎えに行くね」切羽詰まった声だった。俺はすぐに夜のうちに博多の彼女のマンションへ逃げ工場も休んで事泣きを得た。
行方不明というタイトルでブログを書こうって思ったらこんなに出て来た。そして久しぶりの行方不明、繋がりってなんだろう?メールってなんだろう?ケイタイってなんだろう?いつも繋がってなくても本当に心が繋がってる事にツールは必要だろうか?それよりも感情的な気持ちの方が必要だと思うし、逆にそんな時代を生きてない人には分からないだろうけども感情や押さえきれない気持ちってわかるかなぁ?どうしようもない感情はごまかしてないかい?そんな事にも気が付かない事も多い今の繋がりだけど。
刹那リミックス中!デジタルだけど、曲順考えたりするのはアナログだね。
2012年9月23日の小倉の夕暮れ。
その時の「彼女」は今は幸せな家庭を築いてる、俺じゃなくて良かったんだ。うん。
posted by usui special at 03:28| 福岡 ☀|
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